還是深陷在村上春樹的散文中無法自拔。
最近除了雜文集之外,也開始閱讀了「職業としての小說家」這本散文集。
一樣有很多文字觸動自己的心。
有些是「真巧,我也是。」
有些是「咦,會有人這樣想啊。」
有些是「嗯,跟我的想法剛好相反呢。」
雑文集
僕の中のキャッチャ
考えてみたら、ホールデン君と同じように、僕は学校という機構に対して今ひとつ好意が抱けなかった。......それに加えて先生たちの多くは、たまたまというべきか、あまり個人的に敬愛したいタイプの人々ではなかった。教え方も感心できないことが多かったし、しばしば暴力が行使された。学校の規則は多すぎて、細かすぎて、ほとんどシュールレアリスティック名まで無意味だった。クラスに何人かのいたしい友達と、チャーミングな女の子たちがいたから、それが楽しみで中学・高校に通っていたようなもので、もしそういう存在がなかったら、学校なんてに簡単にやめていたかもしれない。共同生活みたいなものも苦手だった。大学に入って東京に出てきたときに、ある学生寮に住むことになったが、ここの生活にもうんざりさせられて、半年も持たずに出てしまった。
每次讀到村上春樹對於學校或是教育制度的想法,我只有「不謀而合」四個字可以用來表示心中的認同。從以前就很討厭上學,因為不知道可以在學校可以學到什麼。後來是在父親的勸說─「學校就是國家規定你要去拿文憑的地方」─只好百般無奈地上學去了,但後來就是學會用最低限度最高效率去應付學校的事物,莫名就成為功課還不錯、還一路順利讀到公立學校的學生了(不想浪費太多錢跟時間在學校上)。想起以前曾在網路上看過某位大陸網友的文章提過「學校是政府認可的詐騙機構」,也讓我深深感到認同。
雖然有點失禮,但是當初選擇轉教育行政到學校機關服務的理由之一,也是想知道,現在的我若以脫離學生的社會人士身分看待學校,是否會有更客觀的想法,去打破我以前的「成見」。結果很遺憾的是,答案還是相同,成見變成了信念。唯一讓我感到放心的是,如果以後我的小孩(如果會有的話)選擇不去上學而選擇自學,我完全不會反對,而且我會與他/她分享我是如何跟家教老師透過溝通來找到彼此合適的教學方式,並會教導他/她如何找尋好的老師,或是適合自己的老師。與其在學校被壓迫或被強制腦袋放空,倒不如將寶貴的時間花在更適合自己的學習方式上,不是更好嗎?
雑文集
翻訳の神様
「さあ、これで今日のノルマは成し遂げる。後は好きなことをしてもいい」というところで、おもむろに翻訳にとりかかる。
つまり翻訳というサク行は僕にとっては「仕事」というよりはむしろ、趣味に近いものなのだ。もう日課としての、責務としての仕事は終わって、(たとえば)これから魚釣りに行ってもいいし、クラリネットの練習をしてもいいし、しくなげのっスケッチをしてもいい、何をするのも自由だというところで、それらの選択肢に進むことなく、あえて机に向かって翻訳をするわけだから、要するにそれだけ純粋に翻訳がすきなのだということになるだろう。
喜歡這句「何をするのも自由だというところで、それらの選択肢に進むことなく、あえて...」用這樣的句子來形容所謂的「興趣」為何。興趣就是,當你百般無聊或是亂有空閒時,願意將所有時間都傾注其上的那件事情。所謂的興趣,就是這樣美好的一件事。
雑文集
言い出しかねて
「僕らの人生とは、記憶の積み重ねによって成り立っている。そうですよね?もし記憶がなかったら、僕らは今現在の僕らしか、頼むべきものがない。記憶があればこそ、僕らは自己というものを何とかひとつに束ね、アイデンティファイし、存在の背骨のようなものをーたとえそれがひとつの仮説に過ぎないにせよーとりあえず設定することができる。
所以不管是何時的自己,都不該厭惡或是試圖抹滅,因為那都是形成現在的自己的一部分。
職業としての小說家- 学校について
p.191 いずれにせよ、大学を何とかようやく卒業したときは、「ああ、これでもう学校には行かなくていいんだ。」と思ってほっとしたことを覚えています。
這句話是,真巧,我也是。
村上ラジオ- ロードス島の上空で
p.34 「そうだ、我々はごく当たり前に生きて、お昼に親子丼を食べて、冗談を言って笑っているけれど、ちょっとした風向きの変化で簡単に消滅してしまうようなはかない存在なんだ。」と実感する。
p.36 「飛行機のエンジンが止まると、あたりはしんとした。風のうなりだけがかすかに耳に届く。よく晴れた秋の午後、雲ひとつない、世界中が余すところなくクリアに見えた。ごつごつした山の稜線や、松の木立ちや、点在する白い並みが眼下に広がり、向こうにエーゲ海が光っていた。僕はその上を漂い、さまよっていた。すべては非現実的に美しく、静かで、ずっと遠くにあった。」
想起七月初的神戶小旅行,也曾有過類似的經歷。而幸好平安幸運地繼續活下來了。「僕はもう一度自分の肉体を取り戻し」,這句話既美又貼切。
職業としての小說家- 時間を味方につける-長編小説を書くこと
p.155 「僕自身、過去に書いた作品については。決して満足しているわけではありません。...でもその作品を書いた時点では、きっとそれ以上うまく書くことは僕にはできなかっただろうと、基本的に考えています。自分はその時点における全力を尽くしたのだということがわかっているからです。かけたいだけ長い時間を書け、持てるエネルギーを惜しみなく投入し、作品を完成させました。いうなれば「総力戦」をオールアウトで戦ったのです。」
總是會對於過去自己曾獲得的或是曾表現出的感受到羞愧。而基本上也是不會回顧的個性。不過這段文字相當有溫度,也很具有積極性。是啊,至少在當下,我是已經盡全力的了。所以換句話說,就是因為現在的自己能力更好了,所以才可以對過去曾經已經付出全力的自己所產出的成果感到不滿足與羞愧吧!だから後日「あそこはこうしておけばよかったな」と悔やみようなことはまずありません。
職業としての小說家- さて、何を書けばいいのか?
p.115 「頭の中にいろんなことをそのまま放り込んでおくと、消えるべきものは消え、残るべきものは残ります。僕はそういう記憶の自然淘汰みたいなものを好むわけです。」
這論點我還挺喜歡的。是啊,何須強求呢?殘酷點來說,可以用「天擇」來說明;哲學一點來說,可以用「既來之則安之」來應對。而且就算再怎麼強留於腦中,終究生命的逝去還是會將一切再次化為虛無。
職業としての小說家- とこまでも個人的でフィジカルな営み
P.182 「強い豊かな才能があれば、それは必ずいつか花開くものだ」と主張人もいます。しかし僕の実感から言えばー僕は自分の実感についていささかの自信を持っているのですがー必ずしもそうとは限らないようです。その才能が地中の比較的浅いところに埋まっているものであれば、放っておいても自然に噴出してくるという可能性は大きいでしょう。しかしもしそれがかなり深いところにあるものなら、そう簡単には見つけられません。それはどれほど豊かな優れた才能であったとしても、もし「よしここを掘ってみよう」と思い立って、実際にシャベルを持ってきて掘る人がいなければ、地中に埋まったまま永遠に見過ごされてしまうかもしれません。
所以其實並非所有的人都是懷才不遇的。如果對自己的能力很有信心,卻總是被動地希望有位「伯樂」來發掘自己,但自己卻不曾努力去展示、去付出,那麼這不叫做懷才不遇,這應該首先叫做緣木求魚。
職業としての小說家- とこまでも個人的でフィジカルな営み
P.176 僕がここで言う「強い心」とは、実生活のレベルにおける実際的な強さのことではありません。実生活においては、僕はごくごく当たり前の出来の人間です。つまらないことで傷つくこともあれば、逆に言わなくてもいいことを言ってしまって、あとでくよくよ後悔することもあります。誘惑にはなかなか逆らえないし、面白くない義務からはできるだけ目を背けようとします。些細なことでいちいち腹を立てたり、カと思うと油断してうっかり大事なことを見過ごしてしまったりします。......しかし小説を書くという作業に関して言えば、僕は一日に五時間ばかり、机に向かってかなり強い心を書き続けることができます。
所謂的強大,並非是全面的。因為針箭有可能從四面八方找到縫隙就鑽進,但我們無法全面地罩上防護網,所以總是需要有所擇有所捨。喜歡文章中對於「普通人」的種種內心脆弱舉例。つまらないことで傷つくこともある。總覺得這個つまらないこと用的真棒。即使只是瑣碎、甚至根本沒什麼大不了的小事,卻總還是能夠把我們仍不夠堅強的內心割劃個幾刀。但是也許只是因為那並非會影響到我們內心真正所「重視」的,所以可以輕易地傷到,輕易地在那沒有特別去留意所以沒有罩上防護網的地方留下傷口。但若是對於我們所珍重的,就必須要務必守住了。對作者來說,那必須要守住的就是「寫作」了。
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